物心ついた頃から自分自身の中に当然のようにあったもの、例えば嗜好だとか思想。
当たり前だと思っていても、世の中にはそれを平然と持ち合わせていない人がたくさんいる。
大衆の中に放り込まれたとき、あまりに同じ価値観を持った人間がそこにいないと、疎外感をモロに食らってしまう。
ずっと繰り返していくうち、それは人には容易に見せられない内情になり、端から見れば内情は「裏の顔」と呼ばれてしまう。
だが「裏」の顔は隠そうと思って隠しても、ある程度付き合えば自ずと顔を出してしまうものだ。
それを「裏表が無いんだな」と思わせるくらいに徹底した隠しっぷり。
もし本当にそうなら、一体どんな「裏」の顔を持っているのかと気になってしまう。
想像力が働き、その人のことが徐々に恐ろしくなってくる。
裏表の無い人を見たとき、これは執念と計算を尽くして作りきった「表」の顔なのではないかと疑ってしまうのは悪い癖だ。
そしてもう一つの可能性が、本当に「裏」も「表」も存在しない人だということ。
つまり、人に見せている姿が、嘘偽りのない自分、ありのままであるということ。
気を遣うことを学習しながらここまで生きてきた僕にはなかなか信じきれない。
開示性豊かな人間を見るたび、得体の知れない生物を見ているようで、なんだか怖くなってしまう。
さらに世の中的にはそれが「正しい」とされている風潮があるような気がして、なんだか息苦しい。
この世で最も楽しい食べ物は、ココスの包み焼きハンバーグ
常に頭の中が賑やかなので、ずっと一人でも退屈しないでいられるタイプだ。
「昔の友達と久々に会ったけど、話せてよかったな~~」
『でも向こうはそうでもないんじゃない?なんかやけに疲れてなかった?多分どういう顔していいかわかんなかったんじゃないかな?』
「疑」の言っていることは基本的に憶測に過ぎないので、無視して良い。
『本当に?話題になってたから見に行ったけど、そんなでもなかったんじゃない?みんなが面白いって言ってるから、面白いと思い込んでいるだけなんじゃない?』
『そんなことなくない?なんか話題おかしくない?もっと話の振り幅広げないと。相手は飽きちゃってたんじゃない?』
根拠の無い懸念をひたすらまくし立てて、不安を煽る。
とか根拠を与えてしまうと、「疑」は待ってましたと「言わんばかりに巨大化する。
もう手に負えなくなると、もう「疑」の独り言しか聞こえなくなる。
そんな自分たちに耳を傾けることができるのは自分しかいないので、「疑」が言いたいこと言い終わった頃に、聞き耳を立ててみる。
どれを聞き入れるかも、自分で決めなければならない。
普段からこの作業に忙しいので、僕がぼーっとしていたら、頭の中は忙しいんだなと勝手に解釈してください。
気をつけろ。そいつは「お前のためだ」と言い張っているが、疑うことが癖なだけだ。