「猫が飼いたい。」
向かいに座る男がこっちを見やった。
訝しんでいるようにも、苦笑しているようにも見えた。
「猫が飼いたい。」
終電の電車内に響く弱々しい声は、間違いなく自分の口から漏れていた。
普段なら気にする周囲の目も、今は気にならない。
そこに意思はなく、ただの感情だけがあった。
内に留めておくことができないほど迸る感情。
抑えることは不可能だった。
「猫が飼いたい。」
僕は孤独に狂わされたのかもしれない。
もしくは、ストレスから来る疲労のおかげか。
「猫が飼いたい。」
どちらでも構わなかった。
もう頭の中はスコティッシュフォールドでいっぱいだったから。
着の身着のまま自室の床に倒れ込む。
いつの間にか帰宅していた。
布団まで動くことも煩わしく、このまま寝てしまいそうになる。
こんなとき、疲労も一瞬で吹き飛ばすほどの癒しがあれば...。
そのときだった。
不意に、温かくて湿った何かが頬を撫でた。
いや、「撫でた」のではなく、「舐められた」。
おもむろに顔を上げた。
そこにいたのは、たぶん、猫だった。
猫っぽいが、なんとなく猫ではない気がする。
猫といえば猫なのかもしれない。
恐らく猫だった。
まあ細かいことなどどうでもいい。
あれだけ飼いたいと思っていた猫が、こうして自室に、目の前にいるのだ。
今はただ喜びだけを噛み締めていたかった。
猫は悠然と部屋を歩き、コツンと壁にぶつかると、向きを変えてまた歩き出す。
そんな可愛らしい仕草を見ていたら、日頃の疲れなど初めから無かったような気さえしてきた。
猫、すごい。
猫、かわいい。
飼っててよかった、猫。
呼び掛けたら反応してくれるんだろうか。
「おーい。」
猫は愛らしく「ニャー」と鳴いた。
それから続けて、
「愛称を決めてください。」
と優しい声で言った。
喋った...。
「愛称を決めてください。」
声は猫に搭載されているスピーカーから聞こえていた。
これは猫なのか?
よく見れば、猫は短い円柱の形状をしている。
うーん...。
猫ではないような気がしてきた。
猫じゃないといえば猫じゃないっぽい。
猫じゃないかもしれない。
側面に「amazon」のロゴが入っている。

たぶん猫じゃない。
猫っぽい何かは再び、
「愛称を決めてください。」
と言った。
そのとき、はたと気付いた。
スピーカーから流れるのはあまりに甘く、そして柔らかい声。
「猫なで声だ...」
(続く)
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